今、次の記事を描いている最中だ。そして、どうも、描く文章がどんどん長くなる傾向にある。
実は、文章が長くなるだけ、長くなって頓挫している『物語』が既に幾つかある。勿論、『情報』として、
外部に向けて『発信』をして、初めて意味と意義が見出されるから、発狂しようが、なんだろうが、掘り起こしたりして、
何かを、持ち帰って、それらを形あるものに仕上げて、それらが他人が見れる状態にまで仕上げる。仕上げて見せる。
『それが、僕の仕事だから…』
僕にも、仕事があるように、あなたにも仕事が在る。(今は、ここでは描かないけれど…)
…
なんで、文章が長くなるか…というと、必要以上に、
『(何かを)確認しながら…』
とか、やはり、必要以上に
『(何かの)細部にこだわったり…』
しながら、描いているからだろう。今回の場合は、昔の僕自身の記憶を改めて辿るために、昔、住んでいた『団地』に
行ってきた。実は、描くのに必要な『記憶』が薄れているわけではないのだけれど、細部が気になり出して、
結局、気分転換にドライブがてらに行ってきた。その団地までは、さぼど遠くはない。今、僕は実家に住んでいるが、
小学校5年生の夏休みから、この(親父が建てた)家に住んでいる。この、今の家に来る、前の記憶を辿るために、
その『団地』に行ってきた。(それほど、離れた場所ではない。車で、40分から50分で着く距離である。本当に、
ちょうどいいドライブでたまに行く。)
…
団地の棟は、かなりある。全部で…90棟位在るのだろうか…その中の1つの棟の一室に住んでいた。
久々に行って、しかも、今回は、本当に(過去の僕の)観察のために行ったから、改めて不思議な空間を目で見て来た。
記憶そのものは、僕の小学校4年生の頃の記憶だから、30年以上前の記憶になる。そして、団地の各棟の建物は、勿論、
今も、現役である。隣接というか、その団地の中に僕が通った小学校もある。僕が、外から見ていたら、子供たちが、
体育祭か、陸上の何か…の練習を先生達の指導の下でしていた。その小学校も現役のようだ。
僕が、遊んだ公園もある。けれども
30年の歳月である。物凄い、様変わりはしている。僕の中で
「変わってしまった。」
とも言えるし、また、逆に
「変わっていない。」
とも言える。そういう、
『不思議な空間』
を見て来た。変わってしまった物も随所に在ったが、全く変わっていない物も随所に在った。
…
『存在を懸けて、時代に合わせて、必死に変化し続けている』
そう考えられなくもない。そして、なんとなく僕は笑ってしまう。
『変われるわけないのに…』
…
その物が無くなる時は、本当に、建物を壊し、更地にしてしまい、かつて、其処に、その物が存在していた
痕跡すら無くそうとする。最終的には、その記録も、そして、記憶も、消し去ろうとする。
…
良くある話だ。
人が持つ、防衛反応の一つなのだろうか…
社会が持つ、精査して行く、あるいは、精査されて行く、という機能なのだろうか…
あるいは…
…
だから、僕は記録にする。
「なんのためか?」
『人々の記憶にするために』
…
今、描いている『物語』がちゃんと、まとまって、アップできる事を、自分で祈りつつ
takumaroは今日も往く。
追記、
今、描いてる、『物語』に対する、『まえがき(中書き)』というタイトルをつけた。
内容は、単純に僕の近況報告(言い訳)になるのかな?その団地へは、先週の水曜日に行ったのだけれど…
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